坪田信貴氏といえば、「ビリギャル」で一斉を風靡したあの塾の先生である。
ビリギャルを育てた先生といえば、それで伝わる人も多いだろう。
学年ビリで「聖徳太子」すらも読めない知らない女子高生を、慶應義塾大学へ送ったその指導は奇跡だったのか。
実はあまり知られていないが、彼女の例以外にも数多の難関大学合格実績がある。
つまり、「ビリギャルは奇跡ではない」のであった。
とだいぶ持ち上げてみたが、そんな坪田氏の著書「才能の正体」を読んでみた。
誰がどう見ても「才能のないおバカなギャル」であったビリギャルを慶大合格に導いた張本人は、「才能」をどのように見ているのか。
非常に興味深い。
この本の中には、
- 学生が自分のために知っておいたほうがいいこと
- 親が自分の子どものために知っておいたほうがいいこと
- 教師が自分の生徒のために知っておいたほうがいいこと
- 上記のいずれでもない人が、自分の成長のために知っておいたほうがいいこと
が盛り込まれている。
けっこう多くの学びがあった本なので、拾い上げる項目も少し多くなるがお付き合いいただきたい。
才能とは、そもそもなにか
人は才能という言葉をカンタンに使うが、そもそもその言葉の意味するものは何なのだろうか。
坪田氏は「才能は生まれ持った能力ではない」という。
IQに関しては、そんなもんじゃ測れないともいう。
答えは「努力をして得た資質や能力」だ。
才能がある、と人がいうときその対象はなにか優れた資質や能力を持っている。
必ず「才能がある人」は、どこかの段階で努力をしている。
人は結果に合わせて、事実を物語にする
ビリギャルである「さやかちゃん」は、誰がどう見ても勉強ができないおバカギャルであった。
そんな彼女が慶應義塾大学を受けるといったとき、坪田氏と母親以外は誰も本気にはしなかった。
つまりその時点では、彼女には「才能はなかった」のである。
しかしいざ合格をした後はどうか。
本が出版され、彼女の成功譚に世間がわくな中でこういう意見が寄せられたそうだ。
「どうせもともと才能があったんでしょう」
「地頭がよかったのでしょう」
この例に表徴されるように、人は「結果から理由を逆算して整合性のとれるストーリーをつくる」のだという。
物事の変化の本質は、初期値からの変化の過程を観察し結果を測定することによって明らかにできる。
しかし多くの場合、人は結果がまずあって、それに整合性のとれる「架空の過程」や「架空の初期値」を作り上げるのだ。
やる気なんてものはない。すべては動機づけ。
「うちの子は勉強のやる気はからきしで、ゲームばっかりなんです」
と親御さんがいうとき、やる気とは「勉強をすること」に対してのみ使われる。
つまり「やる気」という言葉は、第三者からみて望ましい行為にのみに使われるのである。
心理学ではかわりに「動機づけ」と呼ばれる概念を使う。
つまり「そのお子さんは勉強への動機づけがなされていないがゲームへの動機づけがなされている」と言えるということだ。
人間が動機づけされるには3つの要素がある。
それは認知・情動・欲求だ。
認知は、「その物事が役に立つかもしれない」「その物事が楽しいかもしれない」「その物事は楽かもしれない」といった主観的な判断意識。
情動は、感情の上げ下げによる気分の高揚や減退。
欲求は、本当にそれをやりたいと望んでいるということ。
この3つの要素の”積”によって人の動機づけは決定されるのだ。
人はそれが「役に立ちそう」と思えば行動に移せる。
逆に「やれなさそう」と思えば行動をはじめない。
できる人に”教わるな” 行動を完コピせよ
ある物事が「できる人」は、自分がなぜできるようになっていたことを説明することができない。
営業成績がいい先輩に「営業がうまくなるコツを教えて下さい」などと聞くのは愚問である。
一番の近道は、「先輩の一日に密着同行させてください」と申し出て、その一挙手一投足を全て真似ること。
そのためには動画撮影が最も有効だ。
メモをとるだけだと、自分の目についたところしか記録されない。
動画であれば、見落としていたことも後で確認ができるし、一見気づかかないような些細なことも記録される。
子どもは褒めたら調子に乗るは幻想
その子にあった勉強法を探し、いいところを見つけ、できるところを褒めてさらに改善する。
褒めたら子どもが調子に乗るという親御さんもいるがそんなことはない。
もし調子に乗らせるほど褒めることができるならば、それはとてつもなく褒め上手は人だ。
今の学校教育を信じていると能力は伸びない、と坪田氏はいう。
確かに学校現場は、できるだけ調子に乗らせないような指導をしている。
ある生徒Aと生徒Bが、違うことをやっていることを許容しないし、違うやり方でやっていることも許容しない。
しかし実際には生徒Aと生徒Bそれぞれに合う学習法は違うだろうし、かけるべき言葉も与える課題も違う。
そんな状態で一斉授業をしているのは、考えてみればかなり異質な状態である。
教育とマネジメントは違う
ある人がなにかをすることができないとき、原因は「その人が知らないからできない」のか「その人が知っていてもできない」のかでは、アプローチが全く異なる。
前者にアプローチするのが教育であり、後者にアプローチするのがマネジメントである。
勉強のやり方がわかっていないお子さんを、マネジメントしようとしてもうまくはいかない。
人はフィードバックするとよりよくなろうとする生き物
鏡を見ると「良くしたい」ポイントが見つかる。
だから毎朝人は鏡を見て身だしなみを整える。
その鏡が、いちいち「今日はイマイチだね」などと指摘してきたら不愉快になるだろう。
しかし現実にはこうした「余計な一言」を添えてフィードバックしてしまっている人が多い。
フィードバックするときには「事実のみでOK」。
嫌味にならないように、「背筋が曲がっているね」「3時間ゲームしているね」と声をかければ、相手の中にある価値観に照らして望ましくない行動であれば改めようとするだろう。
褒めるときも同じ。
「今日は1時間勉強したね」「○○を覚えたね」「○○は間違えやすいね」
と中立的なフィードバックをするだけでOK。
教育・指導・改善は「悪感情」を生む
人は誰かから指導を受ける時、無意識に悪感情を抱く。
態度がいかに親切で、相手に寄り添うものであったとしても。
相手から送られてきた正当な意見は、そのまま自分が否定されているということになる。
正論で殴られたら誰も気分はよくないはずだ。
「この先行き止まりです」と工事現場の人に言われたら、心のどこかでむっとする。
その人に指摘されずに進んでいたら、結果的に自分に不利益があるのがわかっているのにも関わらず。